心に安らぎを〜Beynew南西220kmまで

Beynew~Beynew南西220km
10/18~10/19 (1072~1073days)

10/18
少し先の話になるが、お正月はトルコで迎えようと思っている。
正月くらいはゆっくりしたい。年の瀬から三が日くらいまでは、自転車に乗らずダラけたい、というのは日本人の性である。

日本の風情を感じるイベントというのは、海外にいると望めない。
こどもの日に鯉のぼりは上がらないし、浴衣を着ての花火大会なんてない。
しかしお正月はというと、これは全世界共通のイベントで、みんな仕事もしないでガハガハ笑いながら酒を飲み、へべれけになって屁をこきながら寝て、また起きたら酒を飲む。正に日本の正月そのまんまなのである。
国民総酒飲みヘベレケ隙あらば屁こき妖怪となる事が許される、全世界共通のスペシャルな数日間なのだ。

では何故トルコで正月を迎えるか。
これから冬を迎えるに当たって、ルート上にある国の中では比較的温暖であることと、ヨーロッパに隣接しているにも関わらず物価が安い、という事が主な理由である。
物価が安いということは、酒をガハガハ飲んでもお財布へのダメージは最小限で済むということで、非常に理にも欲望にも叶っている。

トルコに行くにはルート候補はいくつかあるのだが、カザフスタンからカスピ海を横断するフェリーに乗り、アゼルバイジャンへ入国、その後ジョージアを経由してトルコへ入国するつもりでいる。

陸路のみに拘るなら、ウズベキスタンからトルクメニスタン、イランと走ってトルコへ入国するルートもあり、日本人サイクリスト的にはこっちの方が王道だったりする。
ただこの場合、トルクメニスタンとイランのビザを取得する必要があり、その手続きがべらぼうに面倒臭い。
キルギスのビシュケクで沈没している間に取得する時間は十分あったが、面倒くさがりの私は結局手を付けず仕舞いだった。

しかし結果的には、ビザを申請していてもこの陸路ルートは走行不可能だっただろう。
というのもこの時期、イランでは原油価格上昇による反政府デモが発生、首都テヘランだけで1,000人以上の死者が出る事態へと発展していた。
流石にこんな状況になっている国に突っ込むほど、馬鹿ではないと自負しているので、どちらにしろ前述のカスピ海横断ルートを選択せざるを得なかっただろう。

カスピ海を横断するフェリーは、Kuryk(クリーク)という町から出ている。
昔はAktau(アクタウ)という大きな街から出ていたらしいのだが、ここ数年はその南100キロにあるクリークからしか、フェリーは出航しないと聞く。

なおフェリーとは言うものの、大型トラックなど物流関係輸送のための船であり、本来は旅行者向きの客船ではない。
フェリーは最短でも1泊2日の航行で、船室を備えた造りになっている。
物流関係者はその船室に寝泊まりすることになっており、客室に十分空きはあるから、もしカスピ海横断したい旅行者がいるならついでに運んであげてもいいよ、というスタンスである。

しかしこのフェリー曲者で、出航日は完全不定期。
何とクリーク港に到着してもそれは判明せず、いつ出航するか分からないまま待合室で十日間近くも待たされた…という旅行者もいるとかいないとか。
更にはいざ出航しても、カスピ海は荒れやすい海らしく、荒天時はアゼルバイジャン側の港に寄港できず、数日間海の上で待機し続ける…ということもザラだとか。
要は超めんどくさい野郎なのだ。

短期旅行だと、このフェリーはとてもじゃないが利用できない。
待合室で待ち惚けになっている間に、休暇終了もあり得る。
そのためこのフェリーを利用するのは、私の様な世間を離れた気ままな長期旅行者に限られる。

ベイネウからクリークまでは約480キロ。
五日間もあれば到着できるだろう。

この日は南東からの風で、しばらくは横から受ける形になり、ビュッと強く吹くと路肩の砂利に押し出される。
砂利に落ちないよう、無意識の内に体重を左側に預けているようで、トラックが追い越す時は風が遮断されるため、自転車がトラック側に吸い込まれてしまう。
トラックの交通量が多く、追い越される度にフラフラと自転車が揺れ、こんな状況が500キロ近く続くなんて、命がいくつあっても足りん。

ベイネウから20キロほど走ってカーブを迎え、受ける風向きが変わってようやく落ち着いて走る事ができるように。
やれやれ、これで安心して走る事ができる。

緊張感が薄れると途端に腹が減ってきて、標識の側に腰掛けて昼休憩。
コーンフレークはもう懲り懲り、ということでやっぱりナンに戻ってきた。
パンは生産者の顔が見えるからよろしい。
剣山で付けられた模様からは、ウズベクのお婆婆の顔が思い浮かぶ。

そうそう、こんな感じのニンマリした人の良さそうなお婆婆の顔が…。

しばらく走ると線路を跨ぐ高架があり、ちょうど貨物列車が通過していった。
全く見るものがない砂漠にあって、これは大・大・大イベントである。
すわカメラを取り出し、バシャバシャとファインダーを切る。

側から見れば、あらあらそんなに電車がお好きなのね、と思われそうだが、私は全く電車は好きではない。
終日人工物も生き物もないこの砂漠地帯だと、立ち止まる理由がなくなるので走りっぱなしになる。
こうして列車を写真に撮るということは立ち止まれるということで、小休止を兼ねているのだ。

地平線の彼方に列車が消えていくまで、高架の上で見送る。
映画によくある、列車に乗る友を見送るシーンみたいで、うーん、何だかノスタルジックな気分である。

しかし映画の場合だとカットが入り、違う場所へとシーンが変わるけれど、現実世界では列車を見送った後もシーンは続いていて、また砂漠を走り出さなければならないのだ…あぁ嫌だ。

さて、次の人工物は60キロ先のようですよ…

60キロきっちり走りちょうど日没前に、ポツンと現れたチャイハネ。
建物の側でテントを張る許可をもらい、夕食を注文。
チャイハネでは多人数で大皿をシェアするのが基本で、店では単品料理をメニューに持たないこともある。
この店はまさにそうで、肉は1kgからの注文になる。
ただそこらへんは結構融通が効いて、このチャイハネでも「ハルフ(半分)」と言うと500g分だけ盛ってくれ、値段も安くしてくれる。
これで950テンゲ(約230円)。

中央アジアの良いところは、貧相な食事にならずにガッツリ肉を食える点だ。
反面ベジタリアンには試練の土地らしく、タジキスタンで出会ったベジタリアンサイクリストに食事大変だろう?と聞くと、食い気味に”地獄の様だよ…”と漏らしていた。

10/19
私は元々短気な性格なのだが、中央アジアの厳しい自然に揉まれる中で、それが一層増した様に思う。
退屈な砂漠と強い風に、日々イライラしながら走っている。

しかし昨晩、テントで寝っ転がっていると、”今お前がイラついている風景・環境は、お前では変えることは不可能だ。しかしお前自身が変わる事は容易ではないが、不可能ではないぞよ。”という天啓が、急に降ってきた。
ほう、これは結構良い教えかもしれない。確かに自然や他人に不満があっても、それは私がどうしようもないのであり、それにイラついていてもキリがない。

それを受けてのこの日の走行。
相変わらず退屈な砂漠が続くが、それは仕方ない。

普段イラつくものの一つに、車からのクラックションがある。
ドライバーからすれば追い越しの注意喚起なのだろうが、こっちはミラーで数キロ前から車の存在を確認しているわけで、ブーブーうるさいだけの騒音にイラついていた。

この日はそれを、私への挨拶や激励、として受け止めてみることにした。
ブーブーと鳴らされると、心の中で “サンキュー” と呟く。
そうすると、不思議とイラつきもしないし、逆に爽やかな気分になるではないか。おぉこりゃいいや。

ブーブー。

サンキュー。

ブーブーブー。

サンキューサンキュー。

多少アップダウンはあるものの、気分が乗っているからか苦にはならない。
中央アジアでは、小さな丘でもその頂上に動物の像が立てられている事が多い。
とりわけ、立派な角を持つ羊の像が多い。

この日72キロほど走ったところで、チャイハネが現れた。
中に入ってスプライトを買って休憩していると、トラックドライバーの親父達が声を掛けてくれ、チキンやナン、果てはお小遣いまでもらってしまった。これもイライラせずにリラックスすることによる僥倖だろうか。
彼等もこれからカスピ海をフェリーで渡り、アゼルバイジャン、ジョージアそしてロシアとぐるっと回ってカザフスタンへと帰ってくる、数ヶ月にも及ぶ長距離物流の途上なのだとか。

チャイハネから進むこと40キロ、上りが始まり、道の両側を小高い丘が囲むように。
丘には白とピンク色の、白亜(チョーク)の断層が見られる。
そこに土の茶色も混じり、チョコにイチゴやクリームを混ぜたケーキみたいで、見た目にとてもおいしそうだ。

上りが終わると、下りと共に丘が開け、地平線広がる大地がぱっと広がった。
これまでの砂漠とは違い、白亜の白山が聳え、起伏を作っている。
ここはウスチュルト台地と呼ばれ、広大な面積に白亜の山が広がる。

下りを走り切ったところ、路肩にブレーキトラブルが起きた車のための坂があり、今夜はそこにテントを張ることに。
ちょうどそこからはウスチュルト台地を見渡すことができ、夕日に照らされて黄金に染まるウスチュルト台地を望む事ができた。

(走行ルート:Beynew→Beynew南西110km→Beynew南西220km)

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