人間っていいな〜Avjまで

Toqakhona~Avj
9/5 (1029days)

荒野を行くー。
誰の足跡も車の轍もない不毛の大地を、一人で進んでいく。
そんな情景に憧れを持ったことがある人というのは、案外多いのではないだろうか。

私もそんな人間の一人で、アメリカの国立公園のバックヤードやボリビアの宝石の道など、人が住まない荒野を、進んで走る癖がある。
そして実際、一番自転車旅行を満喫していると感じられるのが、そういう荒野だったりする。
もちろん風景も美しいし、一週間分にもなる水と食料を積んだ自転車で挑み、走破する時の達成感も普段味わう何倍もの大きさとなる。

ただ、そういう厳しい道を走る事は楽しいばかりではない。
数日間誰とも会話を交わさないこともあり得るし、当然そこに人工物は存在しない。

人間は順応能力に長けた動物だ。
だからこそ今、地球上で覇権を握っていると言えよう。
自転車旅行においてもそれは不変で、どんな過酷な自然環境にいても、数日もすれば順応することができる。
何もない、誰もいない。
見えるのは荒野、聞こえるのは風の音だけ…というのが当たり前になってくる。

そうするとどうなるか。
いざ人間の文化圏に戻ってきた時に、精神が著しく疲弊してしまうのだ。
表情が薄くなり、人間と話すのが非常に億劫になる。
感情はささくれ、些細な事でイライラしてしまう。
今度は逆のプロセスで、自然から人間生活へと、再び順応しなければならない。

ワハーン回廊に入って4日目の昨日、人間の生活圏に戻ってきた私は、子供たちによる挨拶責めにも、強烈な向かい風にもほとほと疲れ果ててしまった。
そんな状態で迎える、5日目の今朝。

風は多少弱まったものの、依然として向かい風。

自転車やマラソンをやる人なら分かってもらえると思うのだが、疲労が溜まると、無意識で進み続ける状態になることがある。
確かに起きて足は動いているのだが、まるでそれが自分の体ではなく、夢の中で勝手に動いている様な感覚。
人によっては、’ゾーンに入る’ という言い方をするかもしれない。
これは恐らく、脳が疲労回復を図るために外界からの状態をシャットダウンしているのではないか。

この日は走り始めてすぐ、この状態に陥った。
何キロもボーッと走る時間が続く。

実は昨日から、集落周辺ではアスファルト舗装がされるようになってきた。
長距離旅行用の自転車は、アスファルトの上を効率よく走るように設計されている。
平坦な舗装路を走るなら、疲労はほとんど感じない。

しばらく舗装路を走っていると、徐々に疲労が回復してきたのか、意識がはっきりとしてきた。

夢から覚める時のように、ハッと我に帰る。
山に囲まれた黄金に染まる農地と、緑の菜種畑。
牧歌的で平和な雰囲気が漂うここは、現実世界の桃源郷か…
もしかしたら、ここがワハーン回廊で最も印象に残っている風景かもしれない。

農作業の合間に小休止をしている人達が声をかけてくれ、チャイやビスケットをご馳走してくれた。
ワハーンでもロシア語が通じるので、’自転車で旅行して、これからどこへ行く’という事は伝えることができる。

男性がからかい混じりに、’どうだ、こいつを嫁にしては!?’と、若い女性を指して言ってくる。
「自転車で着いてきてくれるなら喜こんで!」と言うと、みんな笑ってくれた。
女性はちょっとはにかんだような、にこやかな表情。

「みんな家族なの?」と聞くと、’そうじゃなくて友人同士だよ’とのこと。
でも、ここまで小さな集落だと家族みたいなものなんだろうな。

ワハーンに住む人達からは、何の邪念も感じない。
こちらに向けられる、穏やかな笑顔。
彼等の発する言葉や動きには、都会のような忙しさがない。
彼等は、普通の人達の2/3くらいの速さで流れる時間で生活しているかのようだ。

冒頭で、人間生活に順応し直すには疲労感が伴う…と言ったが、彼等との会話には一切のストレスを感じない。
疲労で凍りついた感情が、口に含んだ氷の様に徐々に溶けていく。
あぁ、人との交流ってこんなにも楽しかったものなんだ…

チャイ休憩から出発してからは、住民からの挨拶にも気持ちよく応えられるようになってきた。
徐々に人間生活に順応してきているのが、自分でも分かる。

11時ごろ、イシカシムの集落に到着。
ワハーン回廊上では、比較的大きめの集落になる。

カフェがあったので、昼食をとることに。
久しぶりにまともな食事がとれることに、喜びを感じる。

食事中に、話しかけてきた男性がジェスチャーを交えて ‘日本、津波’と伝えてきた。
もちろんこんな所にネット環境などないので、それが3.11の事を言っているのか、それとも最近また大地震が発生したのか分からない。
男性に「今?それとも2011年?」と聞いても、私のロシア語では理解してくれない。

もしかして南海トラフ大地震が遂に起きたのか…と、その後は少しモヤモヤしながら走ることになる。

イシカシムですれ違ったサイクリストに、’28キロ先から未舗装路になる’と教えられた。
こちらとしては、もうワハーン回廊の終着点であるホログの街まで、アスファルトだと思っていたのに…
このアスファルトが消えてなくなるなんて、信じたくない。
もうあんな地獄の苦労を味わいたくない…

13時ごろになると、向かい風が吹き始めた。
しかも昨日と遜色ないくらいの暴風。
下り坂なのに、時速5キロでしか進めない。

暴風は砂嵐を巻き起こし、樹を横倒しにする。
ワハーン回廊は、東から西へと向かう場合、難易度が各段に上がると思う。

15時半、Avjという集落に到着。
スマートフォンの地図だと、ここは温泉施設となっており、ここに到着するのは数日前から楽しみにしていたのだ。

ただ、受付のような物はない。
自転車ごと敷地内に進むと、男性がいたので「温泉、温泉」と言うと、合点がいったのか、’ちょっと待っていろ’とのこと。

しばらくすると、男性が白衣をきた女性を連れてきた。
女性は少し英語ができ、’温泉ね!入っていいよ!’と言ってくれた。
ついでに「今夜敷地内で寝てもいい?」と尋ねると、快く承諾してくれた。

会話していて分かったのは、どうやらここは病院らしく、温泉は本来患者のための保養施設らしい。
ただ、私以外にも明らかに患者ではない人達も出入りしているので、一般にも開放しているようだ。

私は無料だったのだが、全員無料なのだろうか。

温泉は微温いものの、今の私には骨身に染み渡る心地良さ。
汗と埃と共に、心の疲労も洗い流されていく。

私の他にも7人くらい入っていて、彼等はホログからやってきたのだと言う。
ここの温泉は眼病にいいらしく、仕切りに顔を洗っていた。

温泉からあがり、敷地にテントをはってのんびりする。
すると、温泉を目的にきたであろう子連れの初老男性が、袋いっぱいのリンゴとパンを差し入れしてくれた。

甘いものを口にするのは、本当に久しぶりだ。
りんごってこんなに美味しかったっけ…

りんごの甘さと人の温もりが、多幸感となって体全体に沁み渡る。
人間って、いいな…

(走行ルート:Toqakhona→Avj)

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