下界に帰還〜Yamgまで

Khargush西50km~Yamg
9/3 (1027days)
私が起床した6時には、ベイカーとボリャは既に起きており、ストーブに火を入れてくれていた。
朝食にチャイとパンを用意してくれ、一緒に食べる。
二人はチャイにいっぱいパンを浸して食べており、私もそれに倣って食べてみる。
チャイはシルチャイという、バターを溶かしたように少し塩っぽい味がするもので、パンに味がよく染み込む。
朝食後、二人には気持ちばかりのお金を手渡す。
中央アジアに来て思うのは、キルギスとタジキスタンでは友人間でもタダというのは無いということ。
例えばタバコをもらった時、酒をもらった時に、個人間でのお金のやり取りをしている現場を頻繁に見かけるのだ。
お金は財産でもあり、感謝の気持ちを表すツール…という認識なのかもしれない。
私も彼等に渡したお金は ‘親切へのお礼’、という気持ちで手渡した。
谷の裂け目沿いに、道は下り坂。
昨日はよく見かけた国境警備の歩哨を、流石にこの深さの裂け目を越えられないだろうという判断か、今朝は全く見かけない。
出発してから一貫して下り坂なのだが、全く距離が稼げない。
深い砂に、大きい石が転がる悪路に苦戦して、自転車に乗れない時間の方が多い。
Alichurからワハーン回廊に突入してこの日は3日目。
前の2日間の一日平均時速は、初日が8.7キロ、二日目がそれを更に下回る6.8キロ。
アスファルト舗装された道であれば、一日平均時速は16キロくらいなので、普段の半分以下のスピードでしか進めていないことになる。
二日目で言えばほとんどが下り坂だったにも関わらず、徒歩に怪我生えた程度の速度でしか進めていないことになる。
重さ60キロになる鉄の塊の重荷を背負い、この時速で進むことのストレスの大きさったら、とてつもない。
アフガニスタン側にも道は通っているのだが、あちらはもっと酷そうな見た目をしている。
崖崩れに飲み込まれた所を、全く対処しないままに道を再び通した様な所まである。
ボリビアにあるデスロードなんて目じゃ無いくらい、人が死んでそう。
悪戦苦闘しながら進む内に、谷の裂け目が更に広がり、大河が現れた。
大河とは言っても川幅全体に水が流れているわけではなく、細い川が幾つもその中で流れている。
細かく枝分かれする水の流れはまるで葉脈のようでもあり、毛細血管のようでもある。
大河が見えてから一気に下りになり、標高は3,000メートルを割った。
ここまで下ってくると木々が現れ始める。
ここ一週間くらいずっと灰色の景色の中を走ってきたためか、久しぶりに見る緑は鮮やかすぎて、目が眩むほど。
この日走ること18キロ、Langarという集落に到着。
実に三日ぶりの人里で、商店もゲストハウスもある。
ワハーン回廊にしろ、過去に走った無人地帯にしろ、何日間も自然の中を走って人に会わない日々を送ると、人間の生活圏に戻ってきた時にまず感じるとは、安堵感である。
大袈裟かもしれないけれど、’あぁ、何かあっても死ぬことはないな。誰か助けてくれるな’、と。
Langar以降はアップダウンはあるものの、大きな峠越えはない。
やれやれ、これで楽に走ることができる…とはいかないのがワハーン回廊。
酷いコルゲーションと砂利道で、まともに進めない。
平坦なのに進めない分、感じるストレスが半端ではない。
道は川沿い、ほぼ同じ高さで進んでいく。
川の向こうはやはりアフガニスタン。
途中、硫黄の匂いがするな、という区間があった。
道に流れ込んでくる湧き水により、土が錆色に変色している。
典型的な温泉地の現象だ。
しばらくすると案の定、温泉施設と思われる小屋があり、咆哮を上げたくなるほどテンションが上がったのだが、残念ながら営業しておらず。
咆哮のために開けられた口からは、口の形そのままに落胆の’あぁ〜…’という溜息が漏れたのだった。
温泉に入れず、テンションは一気に下降。
道は相変わらず酷い。
こんな僻地でも、日本の援助は届いているようで、JICAが学校を建てたのだとか。
批判するわけではないが、支援としてちょっとズレているのではないか。
そもそもこの僻地に、子ども達を教育できる人材・教員はいるのか。
また、教育を受けたとして、家業を継ぐ以外の選択肢が子ども達にはあるのか。
東南アジアの国々でも、JICAによって学校が建てられた…という話は聞くけれど、どこまで機能しているのだろうか。
ワハーン回廊のここでなら、まずこの悪路を改善すべく道路工事をし、バス停を作ることに支援する金を回すべきではないか。
そうすることで子ども達はある程度の規模の町にある学校に通え、そして住民はバスの運転手という新たな職の選択肢も生まれる。
そして自転車旅行者はアスファルト道をストレスなく走れる様になる。
みんなハッピーになる。
頼みますよ、JAICAさん。
ほとんど人間に出会わなかった三日間が嘘の様に、Langar以降は子ども達がひっきりなしに声を掛けてくる。
‘ハロー!’ ‘ワッツユアネーム!?’
地元民との交流ということで、とても微笑ましいと思われるかもしれないが、何十回も声を掛けられると、正直鬱陶しい。
体力的にも精神的にも限界ギリギリまで疲弊しきっている中で、全てに対しにこやかに対応できる程、私はできた人間ではない。
そう考えると、ファンサービスとして常に紳士な対応を求められ、実際に実践しているスポーツ選手やアーティストは凄いんだな。
人間の生活に再び順応するのに、少しばかり時間が掛かりそうだ。
今はまだ、人との接触に疲れを感じてしまう。
過酷な自然の中で、自分のみと向き合ってきた代償というものだ。
Langar以降、人里が途切れることなく続いているのだが、ほとんどの集落が農耕を生業としているようだ。
キルギス、そしてタジキスタンと遊牧民の暮らしぶりを見てきたが、ワハーンでは全く別の生活を見ることができる。
集落が途切れず、野宿場所がなかなか見つからない。
日没直前に、ようやく川沿いの砂地に隠れる場所があり、そこにテントを設営。
川を挟んで向こうはアフガニスタンであり、向こうからはテントは丸見え。
流石にこの川幅を越えてくるのはできないだろうけど、ちょっとドキドキしながらの野宿。
(走行ルート:Khargush西50km→Yamg)