アキラ地雷博物館

Aki Ra Landmine Museum(アキラ地雷博物館)
カンボジアきっての観光地・アンコールワット。
9〜15世紀に繁栄したクメール人の王国・アンコール朝が残した遺跡群がシェムリアップに遺されており、アンコールワットはその中の代表的な建造物である。
このアンコールワットをはじめとした遺跡群を見るために、世界中から旅行者がシェムリアップに押し寄せる。
資源に乏しく貧しいカンボジアにあって、宮殿のような超高級ホテルが建つここシェムリアップは、別世界のように浮いた存在に映る。
当然ながら私もアンコールワットを目当てにシェムリアップ来たのであり、着いたその日は「翌日は早起きしてアンコールワットで日の出を見るんだ!」と意気込んでいた。
翌朝起きてみると既に9時。
「まぁ明日行けばええか…」と、早々にその日中にアンコールワットに行くことを諦め、宿でダラダラすることに。
ただ、やはり大観光地という事もあり、日本人宿の同宿者は顔を合わせると「もうアンコールワット行きました?」や、「自分はこれからシェムリアップ郊外の遺跡に行くんですよ〜」なんて話になる。
そんな大観光地でただただネット遊びをしている…というのも何だかバツが悪く、何となくカンボジアのガイドブックのページをペラペラ捲る。
「ただネット遊びしてるだけじゃないぞ!これから観光するから下調べしてるんだぞ!」という、よく分からない見栄っ張りである。
そんな事だから、ほとんど流し読みして真剣に読んでいなかったのだが、ふと目に入った観光地名で、流していた視線がピタッと止まった。
「地雷博物館」
これまでも何度か触れてきたように、第二次世界大戦以降から始まった内戦中、カンボジアには大量の地雷が各地に埋められた。
内戦が終わって40年以上経った現在でも、未だに地雷による被害が年間に何件か発生しているという。
私が中学生の頃、英語か道徳の教科書で片足を失った少年を紹介している内容があったことを記憶している。
そして、その少年はカンボジア人だった。
それまでカンボジアという国を知らなかった若き私が、初めてその存在を知って抱いたのが「カンボジア=地雷」というイメージだったのだ。
その後、カンボジアについて調べてみると、ポルポト時代の大虐殺や、キリングフィールドの存在を知ることとなった。
もう当時から15年近く経過し、アンコールワットという美しい遺跡がカンボジアに存在すると知った現在。
それでも、やはり私の中では地雷やキリングフィールドなど、内戦時代の負の遺産が、カンボジアをイメージして真っ先に浮かび上がるのである。
ガイドブックの地雷博物館の項目には、「内戦後、一人のカンボジア人が地雷を撤去のために奮闘した。彼が撤去した数千個以上の地雷が、彼自身が運営するこの博物館に展示されている」と紹介されていた。
前述の学生時代のエピソードがあったことに加え、この博物館を運営するカンボジア人が「アキラ」という日本人の名前を冠することに、益々この博物館に対する興味を唆られた。
シェムリアップ郊外30キロの場所に博物館はあり、かなり遠いのだが、面倒臭さよりも興味の方が勝り、空身の自転車で向かう事に。
ガタガタの未舗装路で、間断なく跳ね回る自転車に「壊れるんじゃないか」と不安を覚え、来たことを少し後悔したりしたのだが、14時頃になんとか博物館に到着。
地雷博物館というだけあって、展示物の全てが地雷に関する物であり、アキラ氏自身が撤去して信管を抜いた地雷が安置されている。
アンコールワットを占拠したクメールルージュ(カンボジア国内で大虐殺を起こした独裁者・ポルポト派の軍)。
クメールルージュが使用していた紙幣。
ポルポトは原始共産主義の達成のため、カンボジアの全ての文化を破壊したが、紙幣もその一環だった。
一見するとただの林にしか見えないが、よく見ると地雷がそこら中に設置されている。
こちらが博物館を運営するアキラ氏。
博物館にある氏のプロフィールを見ると、何と彼は幼少期はクメールルージュの少年兵だったという。
両親はおいてクメールルージュに殺され、その後彼は少年兵としてクメールルージュに育てられ、10歳からクメールルージュの少年兵として内戦下のカンボジアを闘った。
13歳の頃にベトナム軍に捕らえられ、以降はベトナム軍人としてかつての同胞・クメールルージュと戦う事に。
長きに渡る内戦が終わり、再びカンボジアで暮らし始めたアキラ氏は、地雷によって傷付き、足を失った人々を見る事になる。
彼はクメールルージュの兵士だった頃、地雷を埋める役割を担っていたのだ…
傷付いた人々を見て、氏は自分が埋めた地雷が同胞を苦しめている事実に気が付き、以降「地雷を撤去することで過去の贖罪と、カンボジアを再び平和な国にする」ことを決意したのだった。
アキラという日本名は、地雷撤去を始めた頃に出会った日本人達が、本名も年齢も定かでない彼のために名付けたという。
数千個にも及ぶ地雷を撤去し、この博物館を設立した後現在も、彼は仲間と共に地雷撤去活動を続けている。
また地雷で両親を失った孤児を引き取り、博物館横にある施設で育てている。
その功績が認められ、2010年にはアメリカの大手メディア・CNNが選出した「世界のヒーロー10人」に選出されるに至った。
プノンペンではキリングフィールドとトゥールスレン強制収容所を訪れ、カンボジアの負の歴史を巡ってきた。
それらを訪れた私の頭には、「虐殺を行ってきた側の人間は、今どうしているのだろう?」という疑問が浮かび上がった。
カンボジア内戦は、クメール人同士が殺し合うという凄惨なものだった。
ポルポト政権下の大虐殺では、カンボジア全人口の三分の一が犠牲になったという。
当時から40年以上が経ち、大虐殺を逃れて生き延びた人々の努力により、平和になりつつあるカンボジア。
しかし、人々を強制労働させ、時には処刑していたクメールルージュ側の人間も、生き残っているはずである。
当然ながら、元クメールルージュの人間は、被害を受けていた人々からすれば憎しみの対象だろう。
彼らは、内戦後のカンボジアの中で、果たして人々に受け入れられたのだろうか…?どの様に生きているのか…?というのが私の疑問だったのだ。
ふとしたことでこの地雷博物館を訪れ、運営している人物が元クメールルージュの兵であったことを知った。
そして彼が過去を悔い、今はカンボジアの平和に尽くしていることも知った。
そんな彼の活動を評価し、かつての被害者側のカンボジア人も、彼を受け入れている。
割り切るには余りにも大き過ぎる犠牲ではあるだろうが、カンボジア人達は過去に沈むより、未来を見据えて生きているのだ。
そこにかつての敵・味方はなく、クメール人の同胞としてみなで生きている。
この地雷博物館を訪れた事により、私が数日間に渡って抱えてきた疑問が晴れた様な気がした。
同時に、「カンボジア=負の歴史」というイメージであったものが、「今はその負の歴史を払拭せんがために生きる人々の国」という物に変わった気がする。
小さな博物館で、30分もあれば全て見れてしまうくらいの規模であったが、私が感じた物はとても大きなものだった。
こんばんは。今回のブログ記事を大変興味深く拝見いたしました。
ありがとうございました。どうか、この先も事故なく健康で旅を続けてられることを祈っております。
ありがとうございます。
地雷博物館も、やはり感じる所が多い名所です。
カンボジアに来られることがあれば、是非とも訪れて下さいませ。