トゥールスレン収容所・キリングフィールド

Phnom Penh
Killing Field
3/23 (854days)

カンボジアの首都であるプノンペン。
私にとって東南アジア走行上、最も訪れたいと思っていた場所の一つが、このプノンペンにあるキリングフィールドである。

カンボジアには、キリングフィールドと呼ばれる場所が、国内にいくつか点在している。
キリングフィールドとは、約40年前のポルポト政権下のカンボジアにおいて、大虐殺が行われた処刑場の通称である。

政党クメールルージュは独裁者・ポルポトの指示の下、カンボジア国内のインテリ層を反乱分子として逮捕し、カンボジア各地にあるキリングフィールドにて処刑を行った。
もちろん、大部分が無実の一般人である。
処刑された数は200万人とも言われ、これは当時のカンボジア総人口の三分の一に当たる。

そんな未曾有の大虐殺がわずか半世紀前に行われていたというのを、高校生の頃に世界史を学んでいる中で知った。
全くそんな非人道的なことがあったなど信じられない思いと、現地を訪れて真実を知りたいという関心を、昔から持っていたのである。

少しカンボジアの歴史を触れると、第二次世界大戦以降、カンボジアは長い内戦の時代を迎えていた。
その内戦下でポルポト率いるクメールルージュ政党は勢力を伸ばし、1975年4月17日、プノンペンを制圧した。
プノンペンの住民はこれで長きに渡る内戦が終わると、クメールルージュを笑顔で迎え入れたのだが、その日から地獄が始まることになる。

ポルポトはプノンペンに住む全国民を各地の農村地区に強制移住させ、人々はそこで農作業を強制されることになる。
ポルポトはプノンペン制圧後、一切のテクノロジー、知識、文化を認めない原始共産制への移行を試みた。
これは、農作業においても同様で、鍬や鋤などの手作業しか許されなかった人々は、過酷な労働環境の下、次々と死んでいった。

そうした原始共産制において、技術職やインテリ層というのは全くの邪魔な存在であり、次々と国内各地のキリングフィールドで処刑されていった。
果ては、「眼鏡をかけているだけでインテリ層かスパイ分子」と見なされ、無実の人々が無念の中殺されていくことになる。

(トゥールスレンにある、ポルポトの写真)

数あるキリングフィールドの中で、プノンペンに存在していた政治犯収容所・S21(
通称トゥールスレン)とそれに付属するチュンエク処刑場は、カンボジア国内でも最大かつ極秘上の存在であった。

まずは、トゥールスレンを訪れた。
ここは元小学校だった施設で、敷地内にはコンクリート製の建物が何棟か建ち並ぶ。

かつての学び舎は全ての窓に鉄格子が嵌められ、天井の高さにある通気口は、外に叫び声が漏れないようにコンクリートで塞がれている。

施設は、ベトナム軍と反ポルポト派カンボジア軍がプノンペンを制圧し、1979年にトゥールスレンを発見したほとんど当時のまま、保存されている。
入り口に近い棟には、手枷足枷付きのベッドが、複数の部屋に寂しく設置されている。

発見当時、直前まで拷問を受けていた14体の遺体が、それぞれのベッドに横たえられていたそうだ。
ベッドの横には、当時発見された状況そのままに撮影された写真が展示されている。
写真上のベッドには、拷問を受けて無残に痛めつけられ放置された遺体が写っている。


中庭には、平和だった時には遊具として使われていたであろう木組みの枠が存在している。
ここが強制収容所となった後、この遊具は拷問器具となった。

尋問を受ける人々はロープで吊るされて棒で打たれるか、下にある糞尿を入れた壺に顔を付けられるという拷問を受けていた。
尋問内容は「FBIやKGBと繋がり、スパイ活動をしていたのではないか」という全く事実無根の自白を迫るものであり、多くの人が拷問に耐えきれずに自白し、処刑されていった。

ある棟では、棟全体を使って写真を展示している。
写真はみな、ここトゥールスレンに収容された人々の顔写真である。
トゥールスレンに収容された人々はそれぞれ番号が与えられ、写真とカルテの様な書類が一人ずつきっちりと作成、管理されていた。

カンボジア内戦下、カンボジアと他国の国境には大量の地雷が埋められていた。
そのためカンボジアは一種の鎖国状態となっており、他国はカンボジアで大虐殺が行われているなど、全く想像もしていなかったのである。

ベトナム軍と反ポルポト派カンボジア軍がプノンペンを制圧し、トゥールスレンに残された大量の写真や資料が発見され、ようやくカンボジアで起こった異常なまでの大殺戮が明らかになることになる。

写真の顔は全員こちらを見つめており、そしてこの写真に写った人は誰一人としてもう生きてはいない。
トゥールスレンには約2万人が収容されたと言われており、その内生き残ったのはたったの8人である。

中には笑顔で写っている人もいる。
自分がこれから殺されるを理解していないのか、それともあまりの恐怖に既に心が壊れてしまったのか…。

別の棟は、収容者の独房にされていた建物がある。
看守が巡回しやすいように壁がぶち抜かれ、同じ階層の部屋全てが繋がった状態となっている。

独房は余りにも狭く、人一人寝そべるのが精一杯である。
独房には足枷に使われた鉄棒、トイレとして使われていた弾薬箱が置かれている。
床には血痕がそのままに残されている箇所もあり、非常に生々しい状態で保存されている。

独房の鍵が掛けられていた壁。
文字と数字を読むことができない看守が、それでも番号を管理するために棒線を壁に引いたというのが、一層悲しみを増幅させる。

トゥールスレンを後にし、次にチュンエク・キリングフィールドへと向かった。
トゥールスレンに収容された人々は、最終的にここチュンエクへと移送され、処刑されていった。

一見芝生公園かのように見える敷地は、かつては中華系移民の墓場であった。
敷地を音声ガイドに従って歩いていくと、所々不自然に凸凹が存在しているのがわかる。
それは、処刑された人々が埋められたり、遺骨を発掘するために後に掘り起こされたりしたためだという。
40年経った現在でも、雨が降って地面が削れた後から、新たな遺骨が発見されることもあるくらい、ここチュンエクで何万人もの人々が処刑された。

発見された人々の骨や衣服の切れ端。

マジックツリーと呼ばれている樹木。
看守は幼児の足を掴んで振り回し、この樹に叩きつけて殺したという。
現在は殺された幼児への鎮魂のため、大量のミサンガが括り付けられている。

こちらの樹には、ラジオが括り付けられて大音量で音楽が流されていたという。
処刑の際の断末魔を音楽でかき消し、移送された人々にこれから処刑される事実を悟られないために、周囲に住む人々にこの場が処刑場であると気付かれないために…

チュンエク・キリングフィールドの中心には、慰霊塔が設置されている。

内部は高層タワー状になっており、それぞれの階層が遺骨で埋め尽くされている。
トゥールスレンに並べられた顔写真はそれぞれ違った顔であり、違った存在である人間として認識できた。
こうして骸骨なってしまうと、全く区別ができず、どれもみな同じ物体としてしか認識できない。
この慰霊塔そのものが、圧倒的な死の象徴として、ここに聳え立っている。

こうして数時間に及ぶ見学は終始圧倒される物があり、時には気分が悪くなる瞬間すらあった。
惨劇は僅か40年前のことであり、音声ガイドから流れる生存者、元看守や幹部の肉声を聴きながら巡るトゥールスレンやチュンエク・キリングフィールドは、未だに生々しさを保っているのである。

それでも、私はこれらの場所を訪れてよかったと思っている。
二度と、こんな惨劇が繰り返されないよう、平和と犠牲者の鎮魂を願う。

コメント

  1. とても心に響きました。

    キリングフィールドの紹介をありがとうございました。

    どうか、平和で有意義な旅となりますよう、祈念しております。

    1. ありがとうございます。
      私は博物館や美術館では、大きく感銘を受けたり感動するといったことはなかったのですが、ここキリングフィールドと強制収用所は、大きく心が揺さぶられました。
      たった半世紀前の事であり、当時強制労働させられた人も、クメールルージュ側で兵士として従事していた人も、まだ生きて生活しています。
      それだけに、この2つの場所は生々しさと物悲しさを未だに保っています。
      是非!と強くお勧めすべき場所ではないのでしょうが、それでも私は強く訪問を勧めたい場所です。

  2. いつか自分も癒されに旅行けたらいいなぁ~と、店長のブログ見ながら思ってたけど、今回のは本当に考えさせられました💦
    歴史とかあまり勉強しなかったし知識も無いけど、最近の出来事なんですね😞
    自分の悩みなんてちっぽけだなぁ😅
    毎日大切に生きます❗️
    今回も一気に読まさせてもらいましたよ😄

    1. トゥールスレンとキリングフィールドは、本当に考えさせられる場所です。
      「killing field」という題名で映画にもなっているので、ぜひご覧になってください。

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