一体どちらが本当のエルサルバドル?

5/16~5/21 (361~366days)
国連薬物犯罪事務所(UNODC)は12日までに、世界各国の殺人事件の発生率などに関する報告書を発表した。
報告書によると、殺人事件の発生率が最も高い国は中米ホンジュラス。同国では2012年に10万人当たり90.4件の殺人事件が起きた。
(中略)
UNODCが発表した殺人事件の発生率が高い上位10カ国は以下の通り。
5/16
無事にエルサルバドルに入国した私と濱さんの日本人自転車旅行者一行。
入国手続きには全く面倒なものはなく、まるで笊を潜るかのようにあっさりと通過することができた。
しかし冒頭で触れた通り、これからまさに走り抜けようとするエルサルバドルとホンジュラスに関しては、世界でも群を抜いて危険な国として、統計的に表れている。
この情報は当然この旅行出発前から知っていたことであり、私が濱さんに中米を一緒に走り抜けることを持ち掛けた最大の理由である。
この統計的事実と、そのような危険な国にあっさりと入国できてしまった事実が、私の不安をより一層強くさせた。
私は国境沿いではいつも警戒心を持ち、猜疑的な目で両替商その他怪しい人間に睨みを利かせている。
ここエルサルバドル国境では、通常時より5割増しで眉間のしわを寄せ、辺りを見据えていた。
なのだが、エルサルバドルの両替商達はこちらが両替をしないと分かると、すぐに自分たちの仕事を放棄して「どこから来た?どこへ行く?」と興味津々で聞いてきた。
過去通過してきた国では両替商はいくらこちらが「ノー」と答えても鬱陶しくしつこく引き下がってくることが常であり、それと比べるとエルサルバドルの両替商たちは非常に紳士的である。
質問に対する答えを述べた後、「今スペイン語の勉強をしながら旅行をしている」と告げると、彼らは会話中の文法上の誤りを指摘し、正しい答えまで教えてくれた。
最終的にはカメラで冒頭にある私と濱さんのツーショットを撮ってくれ、「Buen Viaje!(良い旅を!)」と送り出してくれた。
私の中で想像していた凶悪なエルサルバドル人像とは全くかけ離れたもので、どこか肩透かしをくらったような気がした。
風景としても左右には素朴な牧草地が広がり、道路頭上は爽やかな緑で覆われ、時折牛車とすれ違う非常に牧歌的、平和そのものである。
途中休憩のために止まった商店でも、可愛らしい若い女性が2人で店番をしていて、カジュアルなロングスカートを履いていた。
スカートを履いている女性などベリーズやグアテマラでは見かけた記憶がなく、「エルサルバドルは思ったより平和なんじゃないか?」と思い始めてきた。
休憩中に突然スコールがやってきて足止めを喰らったのは、やはり典型的な中米気候、というところではあるが。
その後30分程で雨は上がり、自転車を走らせること数時間、17時過ぎにAcajutlaという町に到着した。
町中唯一の安宿と思われるホテルは高く、15ドルでベッドが一つしかない部屋に通された。
それでも、ホテルのすぐ隣には太平洋があり、久しぶりに聞く荒波の音はうるさいけれども、心地よいものだった。
ところが、夕食を食べるために町の中心部へと向かった際、やはりこの国はどこか危険な匂いがするということを再認識した。
中心部には柵に覆われた広場があり、若者達がスケボーやBMX(タイヤサイズ20インチの小さめのパフォーマンス用自転車)ライドを楽しんでいた。
その様子を少し覗こうとして柵の内側に入った際、入り口付近に座り込んでいた若者に「兄ちゃん、1ドル恵んでくれよ・・・」とへらへらした感じで声を掛けられた。
当然無視を決め込んだが、やはり気味が悪く、すぐに退散することにした。
その後すぐに道路わきのレストランに入った。
注文して料理が出てくるまでの間、年配の男がマスターに「こいつら中国人か?」と声を掛けていた。
「何かいちゃもんを付けられるかな」と嫌な感じがしたのだが、男はこちらに近づいてき、たどたどしい英語で「金、持ってない。タバコ、くれ」と言ってきた。
これも当然無視を決め込んだのだが、まったくいい気分では無くなってしまった。
夕食を終える頃には辺りは暗くなっており、ホテルへ帰る数100メートルの間には、明るい内には気付かなかった売春婦の連れ込み宿のような怪しい建物に明かりが灯っていた。
午前中の「この国は実は平和なんじゃないか?」という私の見通しが非常に甘いものだったのではないかと、この一晩で一気に怖気づいてしまった。
5/17~5/18
5月17日、朝の早い時間にAcajutlaを脱出。
首都のSan Salvadorが治安的に非常に危険であると判断し、我々は海岸沿いを走り、それを回避することにした。
初めの20、30km程はまっすぐで楽勝な道だったのだが、次第に道はカーブの連続と、上っては下るを繰り返す自転車旅行者泣かせのものと変わった。
膝がアンティグアを出発してからの山道で痛むようになってしまい、万全の調子ではない今、この道はかなり堪える。
それでも、それぞれの上り坂を越えた頂上で右手に見える太平洋は非常に爽やかで、心地が良い。
そして、時折生えている赤色の花を携えた樹が、このエルサルバドルを走る中で見る風景としては私が最も好きなものだった。
樹の名前はわからないが、葉の緑と赤色の花の成す色合いが美しく、中米の暖かい気候のイメージにぴったりである。
その後もいくつものアップダウンとトンネルを越え、暑さと膝の痛みに苦しみつつも、そうした景色を楽しみにしてペダルを漕ぐ。
そしていくつ目かの峠を越えた頃、お昼時になり小さな集落の食堂に入った。
食堂のご主人と奥さんは、我々が日本人だと分かると「私たちは10年前に日本で仕事をしたことがある」という話をしてくれた。
奥さんが食事を作っている間、ご主人は我々がスペイン語を勉強中ということを知ってか、簡単な単語を用いた会話を積極的に我々に振ってくれた。
その優しさは、一晩前に私が受けたエルサルバドル人のイメージとは程遠く、とても紳士的だった。
料理もとてもおいしい味付けがされた鶏肉のグリルで、暑さの中にあって食欲を失うことなく食べきることができた。
「エルサルバドルは首都は危険だけれども、それ以外のところは安全だよ」とご主人。
出発するときには食堂の前から手を振って送り出してくれた。
15時半頃、El Sunzalという集落に到着。
ひとつのホステルに入り、値段を聞くと一人あたり6ドルとのことだったので、投宿することにした。
昼間のレストランに続き、ホステルのご主人、奥さんも我々を笑顔で迎えてくれ、丁寧にホステル内の施設を説明してくれた。
こんなにも丁寧な対応をされたのは、中米では初めてのことではないだろうか・・・。
ホステルの裏側には太平洋が広がっており、大きな波が何度も海上で巻き上がっている。
何人ものサーファー達が次から次へとその波に乗っては、ひっくり返って夕方の海に消えていく。
レストランもないような小さな集落なのだが、平和的な雰囲気とホステルの居心地の良さに、我々はEl Sunzalで2泊することにした。
5/19
早朝にホステルのご主人が、敷地内に植えられているマンゴーの樹から落ちた実を何個も集め、朝食にと我々に与えてくれた。
このマンゴーがよく熟していて甘く、美味しい。
こんなにも大量のマンゴーを一度の食事で食べることができるなど、日本では考えられないことだ。
結局朝食には食べきれない程の量で、我々はお残りを鞄の中に入れ、ご主人の優しい心遣いをお土産として有難く頂戴した。
El Sunzal以降、道はとにかく単調で、まっすぐな一本道に起伏が一切ない。
左右は牧草地が広がり、風景の変化といえば石造りのマイルストーンの数字が変化することくらいである。
お昼時になり、食堂に入る。
この日はパスタ、プラタノ(バナナを油で炒めたもの)、ポテトとトマトの和え物。
エルサルバドルの料理は中米には珍しく、ほとんどフリホレス(インゲン豆を煮た料理。見た目は日本でいう粒餡子だが、甘くはない)が食事に付かなかった記憶がある。
その代わりにトマトが料理に用いられており、暑くて疲れた中でもささっと食べられるし味付けも非常においしかった。
グアテマラから続くフリホレス文化に飽き、嫌気がさしていた私にとって、現在この記事を書いているニカラグアに至るまでの中米諸国の中で、エルサルバドル料理の印象が良いのはそういうところから来ているのかもしれない。
(※エルサルバドルを抜けて隣国ホンジュラスに入ると、即フリホレスが食卓に戻ってきた。)
ちなみにエルサルバドル料理で個人的に最もおいしかったのがププサ(写真2枚目)。
エルサルバドルの伝統料理のようで、厚めのトルティーヤの中にチーズ、肉類、野菜類を詰めて焼き上げる。仕上げにはトマトソースを掛けて食べる。
味としてはピザに似ている味で、中米には中々ない味に仕上がっていると思う。
余談だが、スペイン語でCOMEDORとは「食堂」を意味するのだが、エルサルバドルではPUPUSELIA(ププサ屋)という看板を出したププサ専門店なるものを走行中に何度も見かけた。
夕方になり、Zacatecolucaという中規模の町につき、ホテルに投宿した。
ホテルの主人に「この町の治安はどうか?」と尋ねると、「昼間は問題はない。けれど、腕時計なんかは絶対に外して出歩くこと。そして夜は外に出てはいけない」という答えが返ってきた。
実際、夕食を食べるために濱さんと外を歩いてみたのだが、なんとも言えない不気味さ、危うさが町全体から漂っている。
人の姿から見るに、非常に純朴そうで、地味な服装をしている。
それでも、今まで訪れたどの国のどの町よりも嫌な雰囲気を感じる。
前日に出会った食堂の主人、ホステルの主人、道中に声をかけてくれる人々がエルサルバドル人の本質だとすれば、この国に危険なことなど何も起こらなさそうなのに・・・。
私には、どちらがエルサルバドルの本質なのかが、分からなくなってしまった。
5/20
朝も遅くならない内にZacatecolucaの町を抜ける。
この日も全く起伏のない、退屈な道が続く。
風景の変化も特になく、このことは進む速度の遅い自転車旅行者には非常に辛いものである。
ホンジュラス国境手前、最後の大きい都市となるSan Miguelには17時頃到着。
ホテルに投宿し、我々は意気揚々とレストランへと向かった。
しかも、いつも夕食をとるようなへっぽこレストランではなく、ステーキハウスへ、だ。
というのも、この日は私にとってはアラスカから走り始めてちょうど1年という日であり、濱さんにとっても日本を発って888日目という末広がりの記念日という、2人にとって非常に特別な日であったのだ。
この日ばかりは金のことは気にせず、牛肉のステーキに赤ワインという黄金の組み合わせをしこたま楽しんでやった。
そしてステーキをしっかり堪能した後、日が暮れたSan Miguelの街を歩いてホテルまで帰ることになったのだが・・・。
私はこの帰路において、前日にZacatecolucaで感じたエルサルバドルの町にある不気味な雰囲気の正体がわかった気がした。
エルサルバドルの町は、あまりにも生活感がなさ過ぎる。
ZacatecolucaもこのSan Miguelも、夕方まだ早い時間であっても町の大通りにすらほとんど人通りがない。
町を活気づけるはずの商は軒並みシャッターが降ろし、開いている商店を探す方が難しかったくらいだ。
私たちがZacatecolucaとSan Miguelを訪れたのは金曜日と土曜日。
週末ということでバーは人で賑わい、あちこちで音楽が鳴り響いているというのが、どの国でも当たり前だったはずだ。
それも、エルサルバドルでは、ない。バーも見かけないし、音楽もどこにもない。
そして私が最も不気味に感じたのは、このレストランから帰る道中、辺りは暗闇に包まれている時間帯なのに、どこの家からも灯りが漏れていない、という事実である。
家や商店の建物はあるが、その7、8割は廃墟なのではないか・・・?と思う程に。
5/21
夜が明けて5月21日。
私の中でもやもやが晴れないままに、昼過ぎにエルサルバドルを抜け、ホンジュラスへと入国した。
この国の本質は、一体どちらなのだろうか?
田舎で出会った親切で紳士的な人々が、本当のエルサルバドルなのだろうか?それとも、大きな町で感じた得体の知れない不気味さと恐ろしさが、本当のエルサルバドルなのか?
私がそれを知るには、滞在日数があまりにも短すぎたのかもしれない。
恐らく今後二度と訪れないであろうこの国では、真実を知ることは叶わないだろう。
この日はホンジュラスに入国すると同時にスコールに見舞われ、そのまま国境沿いの集落のホテルに投宿した。
部屋の中で激しい雨がホテルの屋根を打ち付ける音を聞き、やがて雨と共にその音が止んでも、そのモヤモヤが無くなることは無かった。
(走行ルート:El Salvador国境→Acajutla→El Sunzal→Zacatecoluca→San Miguel→El Amatillo、Honduraz国境)