秘境・Semuc Champeyへ

San Benito~Semuc Champey~Coban
3/23~3/28 (307~312days)

Semuc Champey(セムク・チャンペイ)
Guatemala Cityから北東へ300キロ、奥深い山の中にSemuc Champeyというグアテマラの自然モニュメントがある。
谷の間を流れるエメラルドグリーンの川が段差状に流れ落ちる様は、まるで天然の棚田のような光景である。

San BenitoのWarm Showerホスト、Memoの家で写真を見てその存在を知った私は、是非とも訪れようとグアテマラ南下ルートを計画した。
その道が地獄の様なルートになるとはその時知る由もなく・・・。
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Warm Showerホスト、Memoと家族に別れを告げ、私と台湾人チャリダーのChungとEnidはまた重い荷物を括り付けて旅路へと戻る。
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メインの道路を避け、小さいローカルな道を走る。
そこは舗装された道では無く、未舗装路で枯れたような風景が広がる。
土の色はやや赤みがかっており、ぽつぽつと家が並ぶ。
私が思い描くアフリカの様な光景。
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途中、Rio Pasionという川で道路が分断されている所に出くわす。
橋は掛かっておらず、数分おきに渡し舟が出ており、地元住民の重要なライフラインとなっているようだ。
歩行者と原付は小さな舟で、車とトラックは大きな船で川を渡っている。
我々も自転車と一緒に舟に乗り、川を渡る。
船頭の厚意なのか、お金は掛からなかった。
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川を渡った先はSayaxcheという町で、先ほどまでの何もなかった土地と打って変わって店が立ち並び、客引きの呼び声がそこかしこから投げかけられる。
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Sayaxcheから30キロ進んだ先の町で、我々は野営することにした。
町の外れには湖があり、そこでは住民がお風呂の代わりとして体を洗い、洗濯をし、そして車を湖の浅瀬まで乗り入れて洗車をしている。
さも当然であるかのように、住民の生活と自然が調和している様が興味深かった。
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朝、日の出とともにテントから這い出して湖で顔を洗う。
既に住民たちの一日は始まっており、朝から母親と手伝いの子ども達が洗濯をしている。
そんな日常の風景を眺めながら撤収準備と食事を済ませ、町を後にする。
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San Benito以降、多少のアップダウンはあったものの山越えの様な激しい峠はなかったのだが、Sayaxche以降、前方に山脈が見える様になった。
我々が南下する遥か先には首都Guatemala Cityがあるのだが、標高1500メートルの高地に位置している。
そのため、現在いる標高150メートルの場所からの厳しい峠越えは、どのルートを通っても避けて通る事ができない。
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この日走ること60キロ程で、分岐点が現れる。
西側に分岐しCobanというグアテマラ第三の都市に続くルートと、東側に分岐しLanquinという町に続くルート。
メインの道路としてはCoban側なのだが、我々はLanquin側にある秘境・Semuc Champeyへ向かうため、東側へと向かった。

この分岐からは更に峠の傾斜は増し、標高もどんどんと上がる様になってきた。
車通りは非常に少なく、針葉樹林の深い林の中、自転車を走らせる。
道中、人生で初めて野生のサソリを見た。
(※もし詳しい方がいらっしゃいましたら、何という種類のサソリか教えて頂けると助かります。)
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峠を登り終え、長い下り坂を下った先に小さい集落が存在していた。
我々が到着した時には集落中の男たちが体を真っ赤にしながらスパイスを麻袋に詰めているところであった。
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住民曰くChamaicaという集落なのだが、私の紙地図にもGoogle Mapにも載っていない程小さな集落で、まずは子ども達が興味津々で我々を囲んだ。
「どこから来たの?」「何人なの?」という質問が息つく暇も無く投げかけられ続ける。
こんな僻地に旅行者が来ることなど、初めてに近いのだろう。

そしてあっという間にアジア人の旅行者が集落に来たという話が村中の人間に伝わったのだろう、買い物をしている僅かな時間でびっくりする様な人数に囲まれた。
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スペイン語は解さないが、ひとしきり会話をした後に「水は売ってるの?」と聞くと、「水は売ってないけど、水なんてそこでいくらでも手に入るよ」という。
私もChungとEnidもよく理解ができないままに言われた場所に向かうと、幅の広い町川が集落に沿って流れている。
どうやら地元住民はこの川の水を生で飲んでいるらしい。

水の中にはドクターフィッシュが住んでおり、足を入れると魚たちがあっという間に私の旅塵に汚れた足に群がる。非常に澄んだ綺麗な水質なのだろう。
流石に生で飲むことはしなかったが、我々はこの川の畔でテントを張り、水浴びをしてから料理をすることに決めた。
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テントを張り、料理をしている間にも住民達は我々のテントを物珍しそうに囲み、中にはわざわざバイクに乗って見に来る住民までいた。

彼等はスマートフォンやカメラといった近代的なデバイスを持っているわけでもなく、ただただ微笑みと共に我々の行動を見守っていた。
その目線からは一点の悪意も感じられず、私は「こんなにも純粋な人間には出会ったことがない」と思うほど、彼等から大きな感銘を受けた。

そして彼等のテント見物は、我々が夕食を終えてテントに籠った後もしばらく続いた。
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朝にテントからはい出ると、既に一人の少女がテントの前で我々の一日が始まるのを待ち構えていた。
少女は我々が朝食を終えてテントを撤収するまで、一言も発さずにただただ側でじっと眺めていた。

せめて何か少女にしてあげられないかと考え、日記のノートを一枚千切り、折り鶴を折って彼女に差し出してみた。
少女自身は怯えて受け取ってくれず、彼女の母親に手渡し、母親を介して折り鶴は彼女の手に渡った。
我々が少し引き返して昼食用の食料を購入し、再び少女の家の側の道を走り抜けた際、彼女の手の中に大事そうに抱えられた折り鶴を見て、私の心も温かくなるのを感じた。

多くの住民に見送られながら我々は更に南下を続けた。
この小さな集落Chamaicaは谷の中の盆地に位置しており、標高は150メートルに位置している。
Chamaicaを離れた我々の前方には、見上げんばかりに巨大な山脈が聳え立っていた。
そして、この峠越えから地獄が始まった。

まるでがけ崩れを起こしたかのように、ごろごろと転がる大小の岩に加え、角度10%は優に超えるであろう急こう配の激坂。
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もちろん自転車に乗ることなど叶うはずもなく、50キロにもなる荷物満載の自転車を押しつつ進む我々。
それは最早、登山と呼ぶのが相応しい険しい道程であった。

少しでも気を許せば自転車ごと滑り落ちる坂道。
数十メートル進んでは小さい樹が作り出す木陰で息を整え、数十メートル先の次の木陰を目指す繰り返し・・・。
僅か10キロの間に標高が1000メートル以上上昇する道程を、我々は6時間もかけてひたすらに自転車を押して歩いた。

決してChungとEnidには口に出さなかったものの、私は心の中で「自転車を捨てて逃げ出したい。それが叶わないならここで殺してくれ」と思う程に辛いものだった。
恐らく彼等2人が一緒に居てくれなければ、心がぽっきりと折れていただろう。
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こんなバカげた道の途中にも人間の暮らしは根付いており、バスが通り、学校や教会を有する集落が存在していることに私は驚きを隠すことができなかった。

そうした集落や小さな商店の存在はまさにオアシスであり、同時に「こんな僻地で物を売っても金など何の役に立つというのだろう?」という疑問を私に抱かせた。
この閉鎖された空間で暮らす以上、外界との接触は恐らく一切ないだろう。
彼等は死ぬまでここで暮らすのだろうか・・・
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自転車を押して歩けど歩けど、この悪路は一切終わりを見せることなく、この日たったの20キロを進んだ頃には既に時は夕方に差し掛かっていた。

心も体も満身創痍で途方に暮れていた我々を一台のトラックが抜き去り、そして我々の前で止まった。
運転手が降りてきて、「この先ずっと今までと変わらない悪路が続くぞ、悪いことは言わないから乗ってけ」と申し出てくれた。
最早限界に近い程に疲弊していた我々はその厚意に甘えさせてもらうことにした。
荷台のココナッツと共に1時間程の道程を揺られ、我々はCanpurという街に着いた。

Canpurは前日の所よりも大きな集落で、見た目はみすぼらしいながらも中心ではマーケットが開かれていた。
が、それでもやはり全く旅行者など見たことが無いらしく、みな我々に興味津々であった。
しかしながら、前日の小さな集落程の「人間の純粋さ」を感じることはできず、我々は24時間営業のガソリンスタンドにお願いし、テントを張らせてもらった。

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Canpur以降も果てしなく続く山道と悪路に、私の心と体力はほとんど限界だった。
ChungとEnidがやはりSemuc Champeyには行かないことにする、と前日に私に申し出てきたことも、精神面での疲弊に拍車を掛けた。
袂を分かつのは、それぞれの旅行スタイルであるため仕方ない。
私は一人でも、意地でもSemuc Champeyへと向かうと決めていた。
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この日は前日の悪路と比べると比較的勾配が緩い方で、まだ自転車を漕ぐことができる箇所もあった。
そして歩きつつ漕ぎつつすること10時半頃、分岐点が現れた。

遥か先の山へ続く登りの分岐が、Chung達が進むCoban方面への道。
遥か下の谷底へと続く下りの分岐が、私が進むSemuc Champeyへの道。
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彼等はCobanから更にメイン道路を避け、ChichicastenangoとLaguna de Atitlanを経由し、Guatemala City南西の古都Antiguaに向かうという。
我々は別れの挨拶と、古都Antiguaでの再会を誓い、袂を分かった。
(※4月16日現在Antiguaに滞在中だが、数日前にChungの足の具合が良くなく、台湾へ帰国することになったというメッセージを受けた。彼等は当然そうだろうが、私自身も残念で悔しい出来事だった。)

メキシコのCancunで日本人宿で2週間過ごし、走行再開初日にChung達と出会って行動を共にした私にとって、一人になることは実に一か月振りのことであった。
誰かの声が側に無い事の不安感と、不思議とこみ上げる開放感が入り混じる感覚を胸に、どんどんと谷底を下っていく。
眼下に広がる光景は美しく、山々は豊かな緑に覆われている。
水が綺麗で豊かである証拠だろう。
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標高1500メートルから再度400メートル程まで下ったろうか。
如何に下り坂とはいえ、相変わらず岩が転がる悪路で、危険を感じることもしばしば。
下り切った先のLanquinという町に着いたのは12時頃だった。

LanquinからSemuc Champeyへは更に12キロ。
ツアーの乗り合いバスの営業がちょうど居合わせたため、「自転車でSemuc Champeyまで行けると思う?」と聞くと、「とてもじゃないが行けないと思う、Q100で2日間面倒見てやるから、バスに乗っていけ」という。

Q100(Q1=15円、約1500円)は私にとって大金であるし、2日間も観光に取るつもりはなかったため礼を言い、自転車で向かう決意をした。
しばらく自転車を走らせていると、バスが追いかけてきて「Q50で片道送るぞ」とさらに営業を持ちかけてきた。
正直、この先どういう道か分からないし体力的にも厳しく感じていた私は、交渉の末Q30で手を打ち、バスに自転車を載せた。

その後30分程、他の乗客が揃うまで、直射日光が降り注ぐ乗り合いバスの荷台の上で待たされた。(※中米の乗り合いバスは、ある程度の乗客が乗らないと出発しない)
ようやく何人か揃ったところで、乗り合いバスはLanquinの町を離れ、山の中へと進んで行った。

進むにつれて、私は本当に自転車で走らなくてよかったと、心から思った。
道はLanquinまで走ってきた悪路と変わらない状況で、それに加え道幅は車一台が通れるくらいに狭い。
補給するための店はほぼ無く、掘っ立て小屋が露店で果物を売っているのを2軒程見た程度。
そのくせ乗り合いバスは、そんなこと構わないと言わんばかりにスピードに乗って飛ばす。
こんなところを自転車で走っていたら、のたれ死んでいるか、轢き殺されていただろう。

激しいアップダウンと曲がりくねったカーブの連続に、荷台の上の私は自転車が落とされないように必死にしがみ付いていた。
バスはその後1時間程山道を走っただろうか、小さな小屋のあるSemuc Champeyの入り口に到着した。

私はQ50を支払い、入場した。
トレッキングのコースが何本かあり、地図の下側の展望台から一番奥の棚田の上へ抜け、川沿いに入り口へと戻るルートを取ることにした。
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コースは激しい傾斜の山道で、整備はされているものの息が激しくなるくらいにはきつい。
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そんな山深いルートを登り切ったところに展望台がある。
そこから見えるのは、深い谷の間を流れ落ちる、棚田のように形成された地形を緑の川が流れ落ちる光景。
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展望台から、米粒の様に小さく見える観光客が川で泳いでいるのを見て、私も山を下って川へと向かった。

服と貴重品は川の側の樹の影に隠し、私も他の観光客にならって川の中に入る。
水は程よく冷たく、この4日間の疲れが、ほんの少しだが癒されたような気がした。
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しばらくドクターフィッシュの触診に身を任せた後、私は入り口へと戻り、再びQ30で乗り合いバスを捕まえてLanquinへと戻った。
時刻は既に夕方で、町はずれでテントを張ったのだが、どうやら公園だかホテルだかの管轄内だったらしく、追い出されてしまった。

テントを畳み、途方に暮れ、あてもなく下ってきた山道の方へ向かう。
本当にどうしようか、と考えながら自転車を押して歩いていた所、土手の下に見えるボロボロの小屋から英語で「おーい!うちに泊まっていけ!」という声が掛かり、若者が土手を上がってきた。

声を掛けてくれたのは25歳程の若者で、Lanquinでツアーの手配を仕事にしているという。
出会った瞬間に目が飛んでいたため、「マリファナを吸っているな」と思ったが、悪い奴ではなさそうだ。
地獄に仏とはこのことと思い、土手を下って彼の家へ自転車を押していった。
この小屋で彼は父親・母親・弟2人と住んでおり、彼等はマヤ民族の末裔だという。
「なぜ泊めてくれるのか?」と聞くと、単純に旅人が好きで、よく泊めているという。

彼等の家はただ板切れを貼り合わせただけで、床はなく土の地面そのまま。
電気も水道もなく、トイレは穴に2本の板切れを置いただけのボットン形式。
しかし彼等は私に「マヤ伝統の料理」だという豚足の入ったスープと、テントを張るスペースを与えてくれた。
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翌朝目を覚ました頃、私の体は最早限界をとうに越え、悲鳴を上げていた。
朝ご飯を出してもらったのだが、食べ物を手に持って口に運ぶ行為にすら疲労を覚え、ようやく口の中に入れてもそれを飲み込むことが体力的に難しい程、疲弊しきっていた。

私はLanquinに来るまでに下ってきた悪路と山道を思い出し、この状態であの道を登ることは不可能であることを悟った。
私は自転車の側にへたり込み、道の上でバスが来るのをひたすら待った。
30分程経っただろうか、バスがようやくやってきて、私は自転車と荷物をバスの屋根の上に乗せてもらい、70キロ先のグアテマラ第3の都市、Cobanへと移動した。

Cobanに到着し、親切な地元住民に案内されて安宿にチェックインした時、私は今まで生を受けて28年間、この時ほど心の底から「助かった」と思ったことはないかもしれない。

ベッドに寝転がるや否や、緊張が解けて一気に疲れが噴出したのか、腰が痛くなり高熱が出て、悪寒が止まらなくなった。
とにかくCobanで体力を少しでも戻すために、2泊することを決めた。

悪寒に震える中、ベッドの上でこの4日間のことを思い出した。
まさに命を燃焼して辿り着いたSemuc Champeyよりも、道中で出会った地図に載っていない集落の、そこに住む人々の純粋さの方が、私には特別な経験であったな、ということを感じながら眠りに就いた。

(走行ルート:San Benito~Sayaxche南30キロ~Chamaica~Canpur~Lanquin~Coban)

コメント

  1. 体調どうですか?(”;)
    ドクターフィッシュだけでは治癒しないですね…。
    かなり辛い旅になったみたいですね。今回は。優しく接してくれた人達を思い出して先ずは体調整えて下さいね(”;)

  2. 心が振動する文章です。旅の実態に感動です。素晴らしい。

  3. […] 正直あまり期待していなかったのだが、予想以上の落差から落ちる滝と、グアテマラのセムクチャンペイに似た段々畑状に連なる様は非常に美しく、迫力を感じた。 […]

«世界遺産»ルアンパバーン② – 沖野直嗣のだいたい自転車世界一周 へ返信する コメントをキャンセル

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